尽くし過ぎてしまうんだ。
私は、むかしっから、どうしても尽くし過ぎちゃう。

もうこのパターン、本当にやめたい。

このところ、自分の中に残っているブロックをひとつひとつ見つけ出してはよく眺めて、まるで荷ほどきするかのように蓋を開け、その中に何が収まっているかを観察する毎日。

最近私はひとつ大きな荷ほどきをしたの。

私は自分がどんなに苦しくても、もっと苦しくて不幸なひとがいるんだから、私なんて大したことない、私は我慢して耐えなきゃ。

もし愛する人が不幸ならば、私も不幸でいなきゃ。私だけ幸せになっちゃだめだ。

こんなことを、かなり深い部分で本気で思ってたんだ。

子どものころから父があまりに苦しそうで、彼の生い立ちを知れば知るほど、なんて不幸な人なんだ、って小さな私はずっと思ってて。
(振り返ってみるとそもそもこの不幸者認定みたいな思考が問題だったかもね)

それでも私への暴力、私の尊厳を無視する接し方がたくさんあって、私はものすごく辛かった。

でも小さな私は、こう思ってた。

お父さんのほうがもっと辛いんだ。だから私がいま体験してることなんて、全然大したことなくて、私が我慢していればお父さんは救われるかもしれない。お父さんがもっと不幸にならなくて済む。

そして私がとった行動は、お父さんに尽くすこと。

アル中だった父は私が10歳くらいからほぼ毎日泥酔して帰ってきて、玄関で倒れ込むから、その介抱をするのが私の役目、まじ日課のようになっていた。

思い出したくないような光景も多々あったな。

※このころになると、母は父の前では存在を消し始めてたので、深夜の介抱は母不在、私と父のふたりの世界だった。

でもね、どんなにお父さんのお世話をしても、尽くしてみても、彼は相変わらず私に対して怒りをあらわにし、私が期待する愛はくれなかった。

お世話をされることがいやだったのかなぁ。

小さな体で彼を介抱するから、足に障害を抱えていた彼の痛い部分をぶつけてしまって殴られたこともあったっけ。

あぁ、細部を思い出すと今でも胸が詰まる。

この子どものころの体験は、私の中にリトルナースというアダルトチルドレンを生み出した。

そしてその後の人との関わり、特に男性との関わり方、恋愛に大きな影響を与えていった。

うん、男に尽くし過ぎてしまうのよ。。。

男だけじゃなく、物事にも尽くし過ぎてしまうんだ。

尽くす行為の根っこが愛ならいいんだけど、「私は愛されない」という恐れから起きてることだから、

実はものすごく見返りを求めてて、そこに愛や承認や感謝がないとどんどんフラストレーションをためていくのね。

そしてある時バーンと破綻する。
燃え尽きる、、、。

だから私の恋愛の終わり方はいつも突然。
そして激し目(笑)

ホントそんなんだったな。

なんというか、私は今でも

私は全然大変じゃない、もっと大変な人はいっぱいいる、もっと辛くても耐えてる人はいる、って思って、自分の体験を過小評価する癖がある。

そりゃ、比較したら際限なんかない。

出来事の強弱や心の傷みに大小はない。
ただそれを体験したひとが「どう感じたか」ただそれだけ。

これは苦しみベクトルでよく発動するけど、実は歓びベクトルでも起きてくる。

それは自分の個性や能力を認められないという形で表に出てくる。

私なんて大したことない。もっと素晴らしい人がいて、もっとすごい人がいて、私なんてまだまだ、って、ここでもやっぱり過小評価してしまうんだ。

つまんないよね。

もうね、こんなパターンから進み出ようと思うのよ。

こんな古い思考の癖、
もうおしまいよ。

小さな私は、ただただ大事に扱われたかった。
「私は愛されてるんだ」ってことが実感できるように、大切に大切に扱ってもらいたかった。

あの小さな私の願いを、
私はこれから自分の力で叶えていくんだ。

私は愛されてる。
私は大事に扱われる存在。
大切にされる価値ある存在。

ここまできたよ。

魂が自愛を慈愛を学ぶために、
約束してきたからこそのこの体験。

もう大丈夫。

私は愛されてる。
そして深く愛してる。